2019年最初の江美研寺子屋は恒例の「七福神巡り」。江戸時代に“今年の七つの福を授かろう”と始まった七福神めぐり。今回は約250年前に始まったという江戸最古の七福神「谷中七福神」を巡りました。

 

東覚寺[福禄寿]

JR田端駅に集合した一行。東京シティガイドクラブの岡部さんの案内で、まずは福禄寿様が祀られている「東覚寺」へ。

お寺の裏側に庭園がありますが、ここは七福神巡り期間のみ開園しているそう。さらにお寺の門前に建つ仁王像は「赤紙仁王」と呼ばれ、体の悪い部分と同じ部位に赤いお札を貼ると病が治ると信じられてきました。お寺の本堂は関東大震災や戦争で焼けて再建され、江戸時代とは配置も変わっていますが、焼け残った仁王様は当時と同じ場所に鎮座しています。

 

道灌山

次の「青雲寺」へ向かう途中、現代は開成学園の敷地や西日暮里公園となっているJR西日暮里駅の西側の丘陵地一帯を眺めました。ここは、江戸城を築いた太田道灌の砦跡があったと伝わる道灌山があります。道灌山は「虫聞き」の名所で、江戸時代には秋の行楽の一つとして楽しまれていました。

 

青雲寺[恵比寿]

次は恵比須様が祀られている「青雲寺」へ。他の七福神は仏教の伝来とともにインドから入ってきましたが、恵比寿様は唯一日本生まれの神様なのだとか。

また、このお寺には、江戸時代の読本作家(現代の小説家)で『南総里見八犬伝』等で知られる滝沢馬琴の筆塚もあります。馬琴が亡くなった後、愛用の筆を埋めて建てた感謝の碑です。

青雲寺の後ろの高台には近所の方から「おすわさま」と親しまれる諏方神社があります。長野県の諏訪大社から勧請された神社で、この境内にはかつて大きな松があったといいます。隅田川を行き交う船が、この松を目印に位置を確認したことから「船繋松(ふなつなぎのまつ)」として、浮世絵などにも描かれています。

 

修性院[布袋]

続いて青雲寺の並びにあり、布袋様が祀られている「修性院」へ。「青雲寺」「修性院」、そしてかつて隣接していた「妙隆寺」も合わせて、三つの寺が競うように花を植えて美しい庭園を作ったことから、この界隈は「花見寺」として多くの人々が訪れる名所になりました。歌川広重も「名所江戸百景」に「日暮里寺院の林泉」として描いています。また「景色の美しさに日が暮れるのも忘れる」ということからこの界隈は「ひぐらしの里」とも呼ばれ、これが「日暮里」の地名の由来となったのだそう。風流ですね。

 

谷中銀座

日暮里から谷中へと歩いてきた一行。谷中という地名は、本郷台地と上野台地の谷間にあることから「谷中」と呼ばれるようになったのだとか。散策に人気の商店街「谷中銀座」を通り抜けます。谷中銀座は関東大震災以降、寺町であった谷中に住宅が増えてできた商店街。戦後、さらに住む人が増えると通勤客のために日暮里駅へ抜ける直通の階段が作られ、夕方にこの階段から谷中銀座を望むと綺麗な夕焼けが見えたことから「夕やけだんだん」と名付けられました。商店街の象徴となっています。

 

岡倉天心記念公園

谷中銀座を抜けて少し行くと、上野の東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立にかかわり、日本美術院を創設した岡倉天心の旧居跡があります。今は「岡倉天心記念公園」として児童公園になっていました。西洋化の荒波が押し寄せた明治に、日本の伝統美術の優れた価値を認め、海外に美術工芸品が流出をするのを防いだ岡倉天心。六角堂には岡倉天心の坐像を見ることができました。

 

蛍坂

坂下の宋林寺付近は「蛍沢」と呼ばれた蛍の名所で、蛍狩りができた場所として浮世絵にも描かれています。一行は、この坂を上って谷中の台地に出ました。

 

谷中の築地塀(ついじべい)

谷中の観音寺(台東区谷中5-8-28)には江戸時代から残る築地塀があります。江戸時代の大名屋敷の壁などに見られる工法で、強度を増すために瓦を間に入れて作られた塀です。江戸時代の風景が残る場所として国の有形文化財に登録されています。

後編へ続きます!

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