江戸時代の神田祭の主役は山車
人々が熱狂した附祭(つけまつり)とは

神田祭は時代に合わせて変化している。現代の神田祭と江戸時代の神田祭にはどのような違いがあり、どう発展を遂げたのか。日本民俗学、祭礼史を研究する福原敏男さんに話を伺った。

 

江戸時代には町神輿がなかった

──神田祭といえば各町会の神輿の宮入が華やかですが、江戸時代は町神輿ではなく山車を曳いていたそうですね。 
神輿の中でも「宮神輿」いわゆる神社神輿は、江戸時代には2基、明治以降は3基で、これは昔からあるものです。ただ、氏子の町神輿というのは早いところでは明治末年、多くは大正12年の関東大震災の復興のために始められました。震災で約14万人もの人々が亡くなり、東京から江戸の面影が壊滅してしまった。その復興の精神的絆として各町がお神輿を出したのです。3・11の時に、仮設住宅などでもお祭や郷土芸能が復興のシンボルとなりましたが、90年ほど前の東京でも同じことがあったのですね。町神輿の連合渡御こそが江戸時代の「粋」で「いなせ」なイメージに思われますが、始まりは90年前くらいのことです。

──江戸時代の神田祭はどのようなものだったのですか。 
明治時代半ばには廃れてしまいましたが、各町は山車で行列をしていました。祭礼行列はまず、神主、神馬、榊など、次に各町の山車行列が行き、以下、順番通りではないですが、神社の神輿渡御行列、当番町が行う附祭、諸侯の武具行列、町奉行所の警固と続きます。
江戸時代は、山王祭と神田祭が幕府の御用祭として隔年で交互に行われましたが、山王で50、神田で40ほどの山車が出ました。山車のテーマは雉子町なら白雉子、大工町なら棟上人形など、その町のシンボルであることも多く、町の特徴が出ていたのです。

 

「附祭」というもう一つの楽しみ

──附祭とは何でしょう。平成17年の神田祭で復活しましたね。 
附祭は宮神輿渡御の付録という意味ですが、大きなハリボテの曳き物や歌舞音曲、仮装など趣向を凝らした行列で、テーマはその年の世相や流行を反映していたので、神輿よりもこちらの方が江戸っ子を熱狂させました。明治半ばには廃れてしまいました。

──附祭はいつ頃、どのようにして生まれたのですか。 
18世紀半ば頃です。京都では15世紀頃に「風流囃子物(ふりゅうはやしもの)」という、お盆や正月、祭礼の時に集団で仮装をして歌舞音曲で表通りを練り歩くことが始まっており、それが原点といえます。ただ、すべてが京都を中心に、全国に広まったというのは誤りです。例えば先般、ユネスコの無形文化遺産に登録された「山・鉾・屋台行事」も祇園祭がすべての始まりかというとそうではない。山・鉾・屋台は、かつての城下町、門前町、宿場町など全国に1500くらい例がありますが、やはりその土地ごとのネイティブな動きがあって始まるものです。もちろん物や情報の交流があったので、京都の影響も受けますが。江戸でも最初は上方文化の方が水準は高かったですが、18世紀の元禄期になると、上方や中京圏の文化から独立して江戸なりの出自、つまり完全に江戸っ子の文化ができてくる。その時に、祭礼文化も同様に江戸土着的なものが生まれ、祇園祭とは全く異なる山車や附祭ができていったのではないでしょうか。

──江戸ならではの附祭の特徴は。 
やはり江戸歌舞伎や舞踏・音曲からの影響が大きいです。附祭で舞踊を踊ったのは素人の町娘達でしたが、後ろには清元や常磐津、歌舞伎などの役者や家元を含めた関係者等、プロが関わっていました。町がお金を出して彼らを雇うわけです。町娘に踊らせるための歌やパフォーマンスは毎回新作しますし、お抱えの芸人も登場させる。現代に例えると、秋元康氏にお金を出して祭のコーディネーターをしてくれ、というようなものです。お抱えのAKBも出すし、町の娘達にもレッスンする。ふつうの町娘が、お祭から一夜明けたらスターになり、ブロマイド(浮世絵)も売れる、大奥仕えもできるようになる、結婚の話も舞い込む……そういうことだってあり得たわけです。祭を見る方の目もレベルが高い。附祭はそういうものでした。

──楽しそうですね。そんなに豪華にして、幕府は咎めなかったのですか。 
例えば、三大改革ごとに緊縮されて、いたちごっこです。天保の改革では、それまで20近くあった演じ物が3組を上限とし、練り物、地走り踊り、踊台(移動式舞台)を計3種しか出してはいけないと規制されてしまいました。すると、「天地人」や「三都」など、三大話のように3つ1組で表現するアイデアで対抗したのです。

──楽しさの中に教養がありますね。人気の題材はあったのですか。 
初期は「大江山凱陣(おおえやまがいじん)」「大鯰(おおなまず)と要石(かなめいし)」、昔話なども人気がありました。私たちは古典の勉強としてこうしたものを学びますが、江戸時代は教養や勉強ではなく娯楽として、老若男女、身分、職業関係なく、何を表現しているのかが理解でき、楽しんでいたのです。

 

「ないまぜ」の豊かさ

──祭礼とはいえ、祭は娯楽の要素も大きいですね。 
近代以降、欧米の文化が入ってきて、私たち現代人は、これは娯楽、これは信仰などとはっきり分けてしまうけれど、たぶん江戸時代の人達は、仕事とか娯楽とか、敬虔なる信仰も、ないまぜになっていたと思います。附祭に敬虔なる信仰がなかったかといえば、そうでもない。そうした「ないまぜ」が前近代の特徴ではないでしょうか。
例えば祇園祭では、西陣のニューモードの布を山鉾(やまぼこ)に掛けて飾っていました。山鉾が動く広告塔でもあった。江戸の祭礼では、今の大丸など呉服屋の商品が買われ、祭礼衣装に仕立てられて、ファッションショーとして宣伝も兼ねていました。

──江戸時代の附祭の復活で、神田祭の楽しみも増えましたね。 
文化資源学会、都市と祭礼研究会が附祭を復活させました。実は私も毎回参加し、仮装しているんですよ。日本の昔話を演じて行列しています。2年前に浦島太郎、4年前に花咲爺(はなさかじい)の行列につきました。今年は神田氏子の両さん(こち亀)の曳き物に出ると思いますので、ぜひ見に来てください。

 

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《お話を伺った方》福原敏男さん

自らも附祭に参加し、仮装もするという福原敏男さん。附祭の復活で江戸の歴史と文化が未来につながった。

ふくはら・としお 民俗学者。武蔵大学人文学部 日本・東アジア文化学科教授。日本民俗学、祭礼史を研究し、現在は江戸時代の祭礼の名残を求めて全国を研究して歩く。著書に『祭礼文化史の研究』『神仏の表象と儀礼』、編著に『社寺参詣曼荼羅』『鬼が行く―江戸の華 神田祭』など。

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