水引工芸を創る楽しさと同時に
背景にある本来の意味も伝えたい

お祝い事でも弔事でも、大切な贈答品の包み紙や封筒には欠かせない水引。
その伝統を今に伝えながら、アートとしても生活の中に活かす活動をしている
中秀流水引家元の田村京淑(たむら けいしゅく)さんに、水引の歴史と今をインタビュー。
ご自身が学院長を務める東京水引芸術学院の生徒さんと一緒にお話を伺いました。

 

水引の起源

──水引はいつ頃から日本にあったのでしょうか。

まず、水引の材料となる紙は6世紀に中国から伝わり、日本でも紙漉きが始まりました。私の出身地である福井県越前市に、紙漉きの技術を村人に伝えた女神・川上御前を紙の神様として祀る「紙祖神岡太神社(しそしんおかもとじんじゃ)」があります。一説にはそこが日本の紙漉きの発祥の地として伝承されています。神様に通じるということで“紙”という言葉ができたともいわれています。

水引の起原としては、飛鳥時代に遣隋使の小野妹子が隋から帰った際、同行した答礼使が中国からの贈り物を天皇家に献上し、それが紅白に染めた麻紐で結んであったのが始まりと考えられています。日本でも中国にならい、最初は紅白の麻紐を使っていましたが、和紙ができてからは、和紙を紅白に染め上げ、こよりにして水引を作りました。麻紐だと締めても戻ってしまいますが、紙だと引っかかって戻らず、しっかりと留められるので紙に替わったようです。

水引は神事と仏事に使われました。遣隋使によって仏教文化も日本に伝わりましたので、それらが並行して発展していったのです。このように遣隋使の小野妹子が水引の大元を作りました。余談ですが同時に小野妹子は仏前に供えるお花も伝え、これが華道の池坊の始まりとなったともいわれているんですよ。

 

江戸時代の水引

──江戸時代の水引はどのようなものだったのでしょうか。

江戸時代には、贈り物をする際に“目上の人にはこういう結び方で”とか、“包み方はこうする”という水引の結び方が“礼法”の中で確立されていました。この礼法というのは一子相伝で、小笠流・伊勢流などの流派がありました。

今日12月14日(インタビューの日)は『忠臣蔵』の討ち入りの日で、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった赤穂事件の後、大石内蔵助以下、四十七士が吉良邸に討ち入りした日です。じつはこの吉良上野介という人は吉良流という礼法の流派の師匠でした。徳川幕府のお抱えの礼法師だったので、“幕府に赴く際どういう服装をしていくべきか”、“どういう水引をかければよいか”ということなどを教えていたのです。

吉良上野介に習いにいくには付け届けをしなければいけないのですが、そのお礼の仕方が浅野内匠頭は適切でなかった。それでちょっと意地悪をして、教えるべき礼法をきちんと教えませんでした。手抜きして教えて恥をかかせたのです。それが発端となって刃傷沙汰になったともいわれています。このように、江戸時代の水引は儀式の時に使われる重要で格の高いものでした。庶民は使わず、武家や公家が競って使ったのです。

やがて商人が力を持つようになると、「大名家のお姫様の輿入れの時はこんな水引を結んだ」などと豪商が武家を真似るようになります。そこから鶴や亀、松竹梅など発展していき、結び方も様々になり、菊の花のようなものまで作ったりするようになり、水引独自の進化を遂げたのです。

こうした結び方の礼法の発展と同時に、素材自体の発展としては、髷の元を締める「元結(もとゆい・もっとい)」の流れがあります。落語の「文七元結」で有名ですが、長野県飯田市では良質な元結が作られました。今でも相撲の髷は元結を使いますが、麻紐などと違い、元結だと髷が取れないんです。江戸時代の女性の髷の「勝山髷」「丸髷」「文金高島田」などの様々な形の発展は、元結の質が上がったからこそ発展できました。その頃の水引はそれらを支える、縁の下の力持ちのような役割だったのですね。寛永(1624〜1644)のころまでは女性は細い麻紐をもって髪を束ねていました。越前の国で元結を発明し売り出して以後元結で髪を結う風俗が一般化し現在にまで300年も使われています。

 

明治から戦後、そして未来へ

──田村さんの教室「東京水引芸術学院」について教えてください。

水引が一般に広まったのは明治になり女学校ができ、お作法の授業として小笠流がとり入れられたことによります。お作法の授業の中で日常の所作・心得とともに折形・水引の結じ方・色・結びの使い方などを学ぶこととなり、一般にも広く広まりました。福井で水引は工芸的な発展を遂げていきます。中秀流水引にも70数種類もの基本の結び方があり、女性に贈る時の結び方、男性に贈る時の結び方などいろいろ考案され、長い歴史の中で定着していきました。昔は通信網が発達していなかったので、福井、京都、金沢など各地で独自の水引が発展しますが、“宝船”や“高砂”など工芸的な結び方は福井が初めてで、宝船は大正天皇に献上したのが最初だといわれています。

そして戦後に“歴史ある結び方を残し、さらに発展させたい”という思いから教室を開講しました。当初は主婦に造花を教えていたのですが、正月の水引を習いたいという声があり、「鶴や亀はできますか?」など、徐々に教える水引が増え、造花も水引で作るようになり、アクセサリーなども作るようになります。こうして昭和30年代から東京水引芸術学院が始まりました。

──今日の教室では正月飾りを作られていました。

水引は本来、“祝い事を引き寄せる”という意味があります。それに根ざした考えから、季節の節目や祝い事、五節句などに使われるものを作ることが多いです。人間の願いや祈りを水引で表現する、という水引本来の役目を大事にしています。
今日の教室で制作しているのは、来年の干支「亥」の正月飾りです。簡単にできて、可愛らしいんですよ。基本のあわじ結びだけでも立体的で変化のあるものが作れます。元々、干支を作ることで厄避けができる、といういわれもあり、赤は厄除け、白は清めの色です。この正月飾りを飾って厄を除け、清めて新年を迎えてほしいと思います。

これからも水引をつくる楽しさと同時に背景にある意味なども是非伝えていきたいと思います。

 

参考文献:『江戸結髪史』金沢康隆(著)青蛙房

 

東京水引芸術学院
田村京淑さんが学院長を務める水引手芸の教室。
水引を基本から楽しく学べ、日本らしい「和」の生活を楽しく、豊かにする作品を作っています。


www.e-yoshinoya.jphttps://mizuhikimusubi.jimdofree.com/

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