前編を読む

 

長安寺[寿老人]

本堂に祀られている寿老人は、寿老人は中国の伝説上の人物で道教の神様です。日本では、長寿の神様として知られています。長安寺には、幕末から明治期に活躍して「最後の狩野派」を名乗り、近代日本画の父とも言われる狩野芳崖(ほうがい)の墓もあります。国の重要文化財「悲母観音」が有名ですね。

 

谷中霊園

寺町だった谷中は江戸時代、寺院それぞれに墓地を持っていましたが、明治時代になると寺院は整理され、地方に移って不在となった寺院の墓地や、上野寛永寺の墓地、さらに新たに開発した墓地を含めて、東京府(現・東京都)が府立の共同墓地「谷中霊園」を作りました。今では10万平米の土地に7千基のお墓があるそうです。大きくて目立つ墓石は、明治の初頭から大正時代にこの界隈で活躍した医者や軍人、学者などのお墓で、有名な人も多く眠ります。一角を占める徳川家の墓所は現在発掘作業中だそうで、埋葬品はそのうち展示されるようです。

 

天王寺[毘沙門天]

天王寺は、谷中界隈では徳川家の菩提寺の上野・寛永寺に次ぐ大きなお寺。江戸時代には修繕費用を工面するために、現代の宝くじにあたる「富くじ」を行い、湯島天神、目黒不動と共に「江戸三富」として賑わったそうです。その後、戊辰戦争では彰義隊の戦争に巻き込まれ、さらに戦後の大空襲で焼けてしまいましたが、戦後に本堂が再建されました。その際、奈良時代の寺院の緩やかな屋根の勾配を模し、広やかな雰囲気のお寺となっています。

ここに祀られている毘沙門天は七福神の中では唯一武器を持ち、鎧に身を固めた戦いの神様。お釈迦様の教えを聞き入れない人に力づくでも従わせる役割なのだそう。また鬼門の守りを固めてくれる武神であり「勝ち運」をもたらすとして七福神に入っているそうです。

 

天王寺の五重塔跡

江戸時代に建造された五重塔は、残念ながら昭和32年に心中による放火事件で焼失。天王寺の五重塔をモデルに小説『五重塔』を書いた幸田露伴は、若い頃、谷中に下宿しており、この塔を眺めて着想を得たのだそうです。ちなみに江戸時代の五重塔として現在も東京に残っているのは、池上本門寺、上野寛永寺の二つだけなのだとか。

高橋お伝の墓

高橋お伝は「明治の毒婦」と言われ、夫殺しや悪事を重ねて明治初期に処刑されたた女性。処刑後、仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚(やしゃものがたり)』や、河竹黙阿弥『綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」など、数々の芝居や小説の題材として脚色され、評判を呼んだといいます。そのうち、芝居に関わった俳優などが鎮魂の碑を作ろうと呼びかけ、墓地の中に碑を設けたそうです。

吉田屋酒店(下町風俗資料館付設展示場)

江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を台東区が現在地に移築したもので、明治43年に建てられた建物として、典型的な日本の商店の建築を今に伝えています。昔の酒屋は量り売りで、人々は空瓶を持って酒を買いに来たそうです。大きな酒瓶や樽などが展示されています。界隈には木造のカフェなど、古い家を見ることができます。

護国院[大黒天]

護国院は江戸時代、上野寛永寺の子院の一つでした。寛永寺は彰義隊の戦で焼けてしまい、江戸時代に造られた建物として残っているのはこの護国院だけなのだそうです。元は上野の博物館の場所にありましたがこの地まで引っ張ってきたといわれています。本堂には小さな木彫りの大黒様の像と、その背後に三代将軍の家光が寄進したと伝わる藤原信実作の大黒様の掛け軸「大黒天画像」があります。大黒様は五穀豊穣の神様として長く信仰のある神様です。

不忍池弁天堂[弁財天]

いよいよ七福神巡りの最後、不忍池弁天堂に着きました。この日はちょうど新年初の巳の日で、弁天様のご縁日の「初巳祭」が執り行われており、五色布が鮮やかです。

弁天様は七福神唯一の女性の神様で、琵琶をもっていることから芸事の神様、また芸事を「習う」ということから学問の神様とされています。

不忍池弁天堂は寛永寺の一部ですが、寛永寺を開山したのは、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えたといわれる天台宗の天海僧正。天海は自分が修行した比叡山延暦寺を参考に、江戸幕府を守るために広大な寺を開山しました。寛永寺は比叡山を参考にしたことから、名前も東の比叡山という意味の「東叡山」、寛永時代にできたので「寛永寺」と名付けたのだそうです。そしてここに自然の池があったのを琵琶湖に見立てて小さな島を造り、弁天堂を祀りました。琵琶湖の竹生島の弁天堂がモデルとされています。この弁天様をお参りして「今年の福」を願いつつお開きとなりました。

 

清水観音堂

最後にちょっと寄り道を。天海僧正は不忍池を望む高台に京都の清水寺を模した「清水観音堂」も造りました。重要文化財に指定されています。境内に配された「月の松」は、歌川広重の「名所江戸百景」で「上野清水堂不忍ノ池」「上野山内月のまつ」として描かれて当時から人気の松でしたが、明治初期の台風の被害で残念ながらなくなってしまいました。

それを2012年に台東区が150年ぶりに復元。松の間から見える弁天堂はとても美しかったです。

お天気に恵まれ、じっくり歩いた3時間。新年の福をいただく七福神巡りにご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました!

 

 

コメントを残す